レコンキスタとは何か?
レコンキスタとは、中世イベリア半島におけるキリスト教勢力によるイスラム勢力からの領土奪還運動を指す言葉です。およそ8世紀初頭から15世紀末まで、長期にわたって続いたこの運動は、スペインとポルトガルの国家形成にも深く関わる歴史的事象として非常に重要です。
このレコンキスタは、単なる軍事衝突にとどまらず、宗教、文化、経済、民族の衝突と融合を伴う壮大な歴史の一幕であったと言えるでしょう。
レコンキスタの定義と語源
「レコンキスタ(Reconquista)」は、スペイン語で「再征服」を意味する言葉です。語源はラテン語に由来し、「再び(re)」と「征服する(conquista)」という二語から成り立っています。同様に、ポルトガル語でも同じつづりで「ヘコンキスタ」と発音されます。
これは、711年にウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻し、西ゴート王国を滅ぼして以降、かつてキリスト教徒が支配していた土地を「再び取り戻す」運動という意味合いを持って使われるようになりました。つまり、ただの戦争ではなく、「回復」を意味する宗教的かつ民族的な理念が込められているのです。
時代背景:イスラム勢力からキリスト教勢力による再征服
7世紀から8世紀にかけて、イスラム教勢力であるウマイヤ朝は急速に領土を拡大し、北アフリカからジブラルタル海峡を越えてイベリア半島へ侵攻しました。711年のグアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国を破り、ムスリムは半島の大部分を支配下に置きました。以後、イベリア半島はイスラム教徒によるアル・アンダルスの時代を迎えます。
しかしその支配下においても、北部の山岳地帯に残されたキリスト教徒たちは勢力を温存し、718年にはアストゥリアス王国を建国し、そこから反攻を開始しました。この一連の運動が、後に「レコンキスタ」として歴史的に認識されるようになります。
レコンキスタは単に領土を奪還する戦争ではなく、宗教的・文化的アイデンティティを賭けた闘いでもあったのです。
開始と終結の年(718年~1492年)
一般的にレコンキスタの始まりは718年、アストゥリアス王国の建国とされています。この年にペラヨという人物がイスラム勢力に反旗を翻し、キリスト教徒による初の独立王国を立ち上げたことが出発点と見なされます。722年のコバドンガの戦いにおいて、彼の軍はイスラム軍を退け、象徴的な勝利を収めました。
終焉は1492年、ナスル朝最後の拠点であったグラナダが陥落し、アルハンブラ宮殿がカスティーリャ王国に引き渡された瞬間です。この年は同時に、コロンブスの新大陸到達やユダヤ人追放令など、スペインの歴史における転換点でもあります。
774年にも及ぶこの長期戦は、単一の戦争ではなく、断続的な戦闘・停戦・同盟・内乱などの複雑な過程を経た長期的な再征服運動でした。
日本語訳とその意味
「レコンキスタ」は日本語においては「再征服運動」と直訳されることもありますが、「国土回復運動」という意訳も存在します。これは単に「取り返す」だけでなく、「本来あるべき姿へと回復する」という意味が込められており、宗教的・歴史的な正統性を強調した表現です。
「国土回復」という表現には、キリスト教的正義の名のもとに自国の領土を取り戻すという強い政治的・宗教的正当化が含まれており、当時の指導者たちはこの名目を掲げて軍事行動を正当化していました。
このように、レコンキスタという語には、単なる歴史的事象を超えて、時代背景や思想的価値観が色濃く反映されているのです。
イスラム勢力のイベリア侵攻と西ゴート王国の滅亡
8世紀初頭、地中海世界における勢力図は大きく塗り替えられようとしていました。かつてローマ帝国の支配下にあったイベリア半島は、西ゴート王国によって統治されていましたが、その安定は長くは続きませんでした。
北アフリカから台頭したイスラム勢力、ウマイヤ朝がイベリア半島に目を向けたとき、長きにわたるキリスト教王国の歴史が大きな転換点を迎えることとなったのです。
ウマイヤ朝の拡大とイベリア半島への進出
イスラム教の成立から間もない7世紀、ムハンマドの死後に成立したウマイヤ朝は、急速な軍事拡張によって中東・北アフリカ・中央アジアまでを勢力下に置いていました。その支配は極めて強固であり、661年にダマスカスを首都としてからは、ジハード(聖戦)の名のもとに領土を広げていきました。
8世紀に入ると、北アフリカでの支配を固めたウマイヤ朝は、ジブラルタル海峡を挟んだイベリア半島への進出を計画します。710年には小規模な偵察的侵攻が行われ、711年にはついに大規模な遠征軍が編成されました。この軍を率いたのが、ベルベル人将軍ターリク・イブン・ズィヤードでした。
このウマイヤ軍の動きこそが、後にアル・アンダルスと呼ばれるイスラム支配地域の始まりとなるのです。
711年のグアダレーテ河畔の戦いとロドリーゴ王の戦死
711年7月、ターリク・イブン・ズィヤード率いるウマイヤ軍はジブラルタル海峡を越え、イベリア半島南部に上陸します。そして西ゴート王国のロドリーゴ王が迎え撃ったのが、グアダレーテ河畔の戦いです。
この戦いは、単なる局地戦ではなく、西ゴート王国の運命を決定づける重大な会戦でした。ターリク軍は機動力と戦術に優れた部隊を用い、保守的な戦法に依存していた西ゴート軍を撃破。ロドリーゴ王は戦死し、王の死によって王国の中枢は一気に瓦解します。
わずか数日で西ゴート王国は支配体制を失い、イスラム軍はその混乱に乗じて半島各地へと進軍していったのです。
西ゴート王国の滅亡とアル・アンダルスの成立
グアダレーテの敗北後、明確な指導者を失った西ゴート王国には組織的な抵抗能力がなく、ムスリム勢力は瞬く間に支配地域を拡大していきました。713年までにトレド、セビリア、コルドバといった主要都市が次々と陥落。キリスト教勢力は北部の山岳地帯へと追い込まれていきました。
征服された地域は「アル・アンダルス(Al-Andalus)」と呼ばれ、イスラム文化と統治の下で再編成されました。この名称は「ヴァンダル人の地」を意味し、のちのアンダルシアの語源ともなります。イスラム勢力は統治体制を整備し、イベリア南部は経済的にも繁栄を見せ始めました。
こうしてイベリア半島は、キリスト教からイスラム教の支配へと劇的な転換を遂げることになったのです。
宗教的寛容さと社会的格差による改宗や逃亡
ウマイヤ朝は、征服地において宗教的寛容さを一定程度示しました。キリスト教徒やユダヤ教徒に対してイスラム教への改宗を強制せず、代わりに「ジズヤ(人頭税)」を課すことで信仰の継続を認めました。
この方針は、宗教的弾圧を伴わない支配として評価されることもありますが、一方でムスリムに比して明確な社会的差別が存在していたのも事実です。ジズヤの負担は決して軽くなく、経済的困窮からイスラム教に改宗する人々が後を絶ちませんでした。また、税を納めきれない者は北部へ逃れるなど、社会的な動揺も続きました。
寛容と抑圧、選択と強制の狭間にあったこの時代の人々の姿は、単純な善悪や勝敗では語れない複雑な歴史の一側面を映し出しています。
アストゥリアス王国の建国とキリスト教勢力の再起
ウマイヤ朝によるイベリア半島の征服が急速に進む中、キリスト教徒たちは完全に打ちのめされたわけではありませんでした。特に、険しいカンタブリア山脈の北側に位置するアストゥリアス地方では、イスラム勢力の支配が行き届かず、そこでキリスト教徒の反攻が密かに始まっていました。
この地で立ち上がったのが、のちにレコンキスタの象徴的人物となるペラヨであり、彼の指導のもとにアストゥリアス王国が誕生したことは、キリスト教勢力の再起にとって極めて重要な出来事でした。
ペラヨとアストゥリアス王国の誕生(718年)
718年、かつて西ゴート王国の貴族であったとされるペラヨ(スペイン語ではドン・ペラーヨ)が、アストゥリアス地方のキリスト教徒をまとめて蜂起しました。彼はイスラム支配に反発する者たちを結集し、小規模ながら独立政権を樹立します。これが後に「アストゥリアス王国」として知られることになります。
この王国は当初、国というよりは反乱拠点に近いものでしたが、その象徴的意味は極めて大きく、「失われたキリスト教の地を取り戻す」第一歩として、レコンキスタの起点に位置付けられるようになったのです。
コバドンガの戦いとキリスト教徒初の勝利
アストゥリアス王国の存在を脅威とみなしたイスラム軍は、ペラヨ討伐のために軍を派遣します。722年、両軍はアストゥリアス山中のコバドンガで激突しました。山岳地帯の地形を巧みに利用したペラヨ軍は、少数ながらイスラム軍に打撃を与えることに成功します。
この戦いは、戦術的にはさほど大規模ではなかったものの、キリスト教徒がイスラム勢力に対して初めて勝利を収めた象徴的戦いとして記憶されることとなり、レコンキスタの精神的支柱とも言える出来事になりました。
以降、アストゥリアス王国はキリスト教勢力の拠点として、周辺の豪族や逃亡者たちを受け入れながら勢力を拡大していきます。
フランク王国の介入とピレネー以北での防衛
イベリア半島の情勢に注目していたのは、地元のキリスト教徒だけではありませんでした。フランク王国もまた、南方からのイスラム勢力の拡大を警戒しており、ピレネー山脈を天然の防壁として北方への侵攻を阻止しようとしました。
732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール・マルテルがウマイヤ軍に勝利し、ムスリムの勢力拡大を食い止めることに成功します。これは、ヨーロッパ全体にとっても転換点となる戦いでした。
この勝利によって、フランク王国はピレネー以北のキリスト教世界の防衛者としての地位を確立し、後のレコンキスタにも間接的な影響を与えることになります。
後ウマイヤ朝の成立と北部諸国の独立
一方、イスラム側では750年のアッバース革命によりウマイヤ朝が本拠地ダマスカスで滅亡し、後ウマイヤ朝がイベリア半島において独自に存続する道を選びます。アブド・アッラフマーン1世が756年にコルドバで後ウマイヤ朝を建国したことで、半島南部はイスラム国家としての体制を維持しました。
この新体制の下でも、北部のキリスト教国家との抗争は続きます。アストゥリアス王国はその間も地道に勢力を伸ばし、やがて西方のカンタブリア地方とも連携を強め、統一的なキリスト教勢力としての体制を固めていきます。
イスラム政権の内部混乱とフランク王国との外的圧力が、北部キリスト教諸国の生き残りと再興を可能にしたと言えるでしょう。
レオン・カスティーリャ・アラゴンの台頭と内部抗争
レコンキスタの進行とともに、イベリア半島の北部では複数のキリスト教王国が興隆し、勢力を拡大していきました。これらの王国はイスラム勢力と戦う一方で、互いに領土や王位をめぐって激しく対立し、しばしば内部抗争を繰り返しました。
レコンキスタが単一の連携した戦線ではなく、複雑に絡み合う諸王国の戦略と欲望によって動かされていたことを理解するには、この時期のキリスト教勢力の動向に注目することが重要です。
キリスト教諸王国の拡大と相互抗争
10世紀から11世紀にかけて、アストゥリアス王国はレオンへ遷都し、レオン王国と名を変えて勢力を拡大していきました。これに対し、レオン東部に置かれた辺境領カスティーリャ伯領が次第に独立色を強め、独自の権力基盤を築きはじめます。
また、ピレネー山脈西部ではナバラ王国、東部ではアラゴン伯領(のちアラゴン王国)が台頭し、さらに地中海側のカタルーニャ諸伯領との連携によって新たな政治勢力として成長しました。これらの王国はイスラム勢力と戦う一方で、互いに婚姻や軍事同盟、時には武力によって支配領域を争い、政治的な主導権を巡る複雑な抗争が繰り広げられました。
キリスト教勢力内部のこうした分裂と競争は、レコンキスタを遅延させる一因ともなった一方で、各王国が独自の戦略でイスラム勢力に対抗する原動力にもなっていました。
レオン王国の建国とカスティーリャ伯領の台頭
914年、アストゥリアス王国の王都がレオンに移され、以降この国はレオン王国と呼ばれるようになります。レオン王国はドゥエロ川以北を支配し、アルフォンソ3世やその後継者たちのもとで着実に領土を南下させていきました。
一方で、東方のカスティーリャ地方は軍事的最前線として重要性を増し、932年にはカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスが独立性を強めて伯領の統合を進めました。彼は事実上の独立した支配者となり、後のカスティーリャ王国の基礎を築いた人物とされています。
この時期のカスティーリャは、まだレオン王国の一部ではありましたが、次第に王位をも狙う力強い勢力へと変貌していくのです。
マンスールの軍事的勝利と後ウマイヤ朝の最盛期
イスラム勢力の中でも、後ウマイヤ朝はアブド・アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎え、929年にはコルドバのカリフを自称し、イベリア半島での権威を強化しました。その後、976年に即位したヒシャーム2世は若年であったため、実権は宰相マンスール(ムハンマド・イブン・アビー・アーミル)に握られます。
マンスールは圧倒的な軍事的才能を発揮し、キリスト教諸国への大規模な遠征を繰り返します。バルセロナ、パンプローナ、サンティアゴ・デ・コンポステーラなどが襲撃を受け、多くのキリスト教諸侯が後ウマイヤ朝に臣従を誓うこととなりました。
この時期は、後ウマイヤ朝が軍事的・政治的に最も強大であった時代であり、キリスト教勢力は再び厳しい苦境に立たされたのです。
カスティーリャとアラゴンの分裂と再編成
マンスールの死後、後ウマイヤ朝は急速に衰退し、内紛と反乱によって崩壊の道をたどります。1031年、ついに後ウマイヤ朝は滅亡し、タイファと呼ばれるイスラムの小国群が乱立する時代に入ります。
これを好機と見たキリスト教諸国は再び勢いを取り戻し始めますが、彼ら自身も分裂と統合を繰り返していました。1035年、ナバラ王サンチョ・ガルセス3世の死後、遺領は息子たちによって分割相続され、カスティーリャ、アラゴン、ナバラ、ソブラルベといった諸国が誕生します。これらの国は当初は互いに独立した存在でしたが、婚姻や戦争を通じて再編が進められていきました。
こうしてレコンキスタの舞台は、複数のキリスト教王国がイスラム勢力と同時に互いの覇権を争う複雑な政治構造のもとで進行していくのです。
イスラム勢力の分裂とムラービト・ムワッヒド朝の介入
11世紀に入り、イベリア半島におけるイスラム勢力は大きな転換点を迎えます。これまで強大な力を誇っていた後ウマイヤ朝が内紛によって瓦解し、代わって多くの小国が乱立する「タイファ時代」が到来しました。これに乗じてキリスト教勢力が南下を進める一方、北アフリカからは新たなイスラム王朝が介入し、再び戦局は激化します。
イスラム勢力の分裂と、それを埋めようとするムラービト朝・ムワッヒド朝の介入は、レコンキスタにおける重要な転機を生み出したのです。
後ウマイヤ朝の崩壊とタイファ時代の到来(1031年)
10世紀後半に最盛期を迎えた後ウマイヤ朝でしたが、マンスールの死後、統治体制は急速に崩壊へと向かいました。宰相の権力争いやカリフの擁立をめぐる内紛が相次ぎ、コルドバではクーデターが頻発。ついに1031年、ヒシャーム3世の退位とともに後ウマイヤ朝は滅亡します。
その結果、イベリア半島南部には「タイファ」と呼ばれる小規模なイスラム王国が乱立するようになりました。セビリャ、サラゴサ、グラナダ、バダホスなどが代表的なタイファであり、それぞれが独自の王を戴いていましたが、軍事力や政治力は後ウマイヤ朝に比べて大幅に弱体化していました。
このタイファ時代の到来は、キリスト教勢力にとって反攻の好機となり、南進の動きが本格化する契機となったのです。
ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合
タイファ諸国は互いに争い合いながらも、キリスト教勢力の進撃に直面すると団結できず、貢納金(パリア)によって和平を維持しようとしました。しかし、1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世がトレドを陥落させると、危機感を募らせたセビリャ、グラナダなどのタイファ諸国は、北アフリカのムラービト朝に援軍を要請します。
これに応じたのがムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンで、1086年にイベリア半島へ上陸。サラカの戦い(ザッラーカの戦い)ではアルフォンソ6世の軍を撃破し、イスラム勢力に再び勢いを取り戻させます。その後ムラービト朝は次第にタイファ諸国を吸収し、1094年までにコルドバやセビリャ、バレンシアなどを併合しました。
ムラービト朝は、単なる援軍ではなく、タイファ諸国の弱体ぶりに失望し、自らイベリア半島の再統治を試みた点において、イスラム世界の再統合を象徴する存在であったと言えるでしょう。
ポルトガル王国の成立(1139年)
ムラービト朝による一時的な反攻の最中、キリスト教勢力は北西部で新たな動きを見せていました。レオン王国の辺境にあったポルトゥカーレ伯領では、ブルゴーニュ家出身のアンリ・ド・ブルゴーニュの子、アフォンソ・エンリケスが台頭。彼は1139年、オーリッケの戦いでムラービト軍に勝利し、独立を宣言します。
アフォンソは自らを「ポルトガル王アフォンソ1世」と名乗り、1143年にはローマ教皇を仲介としたレオン王国の承認を得て、ポルトガル王国が正式に成立します。この国はやがて西欧世界における海洋国家として発展していくことになります。
レコンキスタの文脈において、ポルトガル王国の独立は新たなキリスト教勢力の台頭を意味し、イスラム勢力に対する圧力をさらに強める要因となりました。
ムワッヒド朝の勃興と対キリスト教戦争
しかし、ムラービト朝もまた永続的な支配を維持することはできませんでした。厳格な宗教政策や民族的対立が原因で内部反乱が相次ぎ、1147年には北アフリカで新たに興ったムワッヒド朝(アルモハード朝)によってマラケシュが陥落、ムラービト朝は滅亡します。
ムワッヒド朝はベルベル人の宗教改革運動を起源とする王朝で、イスラム教の純化を掲げて台頭しました。彼らはすぐにイベリア半島へも進出し、タイファ再分裂の兆しを抑えつつ再びキリスト教勢力に対峙します。1195年にはアラルコスの戦いでカスティーリャ軍を破り、イスラム側に一時的な優勢をもたらしました。
ムワッヒド朝の介入によって、レコンキスタは再び緊張感を増し、両勢力の戦いはさらに長期化・激化していくことになります。
レコンキスタの転機と南部の征服
13世紀初頭、長く膠着状態にあったレコンキスタの戦局が劇的に動き出します。イスラム勢力に圧迫されていたキリスト教諸国は、ローマ教皇の呼びかけのもとで連携を強化し、これまでになかった規模の共同戦線を築きました。その象徴となるのが1212年の「ラス・ナバス・デ・トロサの戦い」であり、この戦いを境にレコンキスタは南部征服の段階へと突入します。
この転機は、キリスト教勢力の政治的成熟と、ムワッヒド朝の衰退という二つの要因が重なったことで生まれた歴史的転換点でした。
ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(1212年)
12世紀末、ムワッヒド朝はアルフォンソ8世率いるカスティーリャ軍をアラルコスの戦いで破り、イベリア半島における優勢を誇示しました。この敗北に衝撃を受けたキリスト教諸国は、教皇インノケンティウス3世の支援を受けて再起を図ります。
1212年、カスティーリャ王アルフォンソ8世を中心に、アラゴン王ペドロ2世、ナバラ王サンチョ7世らが連合軍を結成。ピレネーを越えた多くの十字軍騎士も参加し、その総数は5万を超えたとされます。これに対し、ムワッヒド朝も12万におよぶ大軍を用意して応戦します。
7月16日、ナバス・デ・トロサで激突した両軍は、熾烈な戦いを繰り広げた末、キリスト教連合軍が大勝を収めました。特にナバラ軍がムワッヒド朝の親衛部隊を突き崩したことが勝利の決定打となりました。
この勝利は、キリスト教勢力がイスラム勢力に対して戦略的主導権を握る転換点となり、レコンキスタの進展に弾みをつけたのです。
キリスト教国の連合と勝利、ムワッヒド朝の衰退
ナバス・デ・トロサの敗北は、ムワッヒド朝にとって致命的な打撃となりました。直後からイベリア半島内の支配体制は揺らぎ始め、諸都市では反乱や自治の動きが広がります。1224年にはカリフ・ユースフ2世が死去し、王位継承を巡る内紛が発生。さらに、モロッコでもベルベル人による反乱が起こり、朝廷は統一力を失っていきます。
これにより、ムワッヒド朝はイベリア半島における支配権を次第に失い、小国が群立する状態へと再び移行していきました。
キリスト教諸国はこの混乱を好機と捉え、積極的に南部への攻勢を開始。レコンキスタは一気に進展することとなったのです。
カスティーリャ・アラゴンの攻勢、コルドバ・セビリア陥落
ナバス・デ・トロサ以降、カスティーリャ王国は南進を本格化させました。1236年、レコンキスタの象徴的な成果として、かつて後ウマイヤ朝の都であったコルドバを攻略。以後、次々とイスラム都市が陥落し、キリスト教の支配領域は急速に広がっていきます。
一方アラゴン王国も、地中海沿岸の制圧を目指して動き、1238年にはバレンシアを獲得。1248年にはカスティーリャ王国が南西部の大都市セビリアを制圧し、ジブラルタル海峡に迫るまでの勢いを見せました。
この時点で、イスラム勢力は事実上グラナダ王国を残すのみとなり、レコンキスタの最終局面が視野に入ることとなりました。
グラナダを残し、ムスリム勢力の大半が撤退
1251年までにイベリア半島のほぼ全域はキリスト教諸国の支配下に入り、唯一のイスラム政権としてナスル朝(グラナダ王国)が残されました。グラナダは地形的に守りやすいシエラネバダ山脈に囲まれ、要塞都市アルハンブラ宮殿を中心に長らく独立を維持します。
さらに、外交的に巧みな戦術を用い、時にカスティーリャに臣従し、時に北アフリカのイスラム政権と同盟を結ぶことで生き延びる道を選びました。
こうして13世紀半ばには、レコンキスタは実質的な勝利を収めながらも、グラナダという最後の砦を残し、しばしの静寂期を迎えることとなったのです。
グラナダ陥落とレコンキスタの終焉
13世紀半ば以降、イベリア半島におけるイスラム勢力はグラナダ王国(ナスル朝)を残すのみとなり、レコンキスタは事実上の最終段階に入りました。とはいえ、この最後のイスラム王国は、容易には陥落しませんでした。およそ250年にわたって存続したグラナダ王国は、地理的条件と巧妙な外交戦略により、他の王国とは異なる生き残りを見せました。
1492年、アルハンブラ宮殿の陥落によって、ついにレコンキスタは終焉を迎えますが、その背景には政治的統合、王権の強化、そして宗教的純化という複雑な要素が絡み合っていました。
ナスル朝の生存戦略と外交術
1238年にグラナダに遷都して成立したナスル朝は、地理的に難攻不落のシエラネバダ山脈に守られていたこともあり、他のタイファ諸国とは異なる長期政権を維持しました。しかし、その最大の特徴は、軍事ではなく外交によって生存を図った点にあります。
カスティーリャへの貢納、臣従、さらには北アフリカのマリーン朝との同盟など、情勢に応じて柔軟な立場を取ることで、グラナダは周囲の強国との衝突を巧みに回避してきました。ときにはキリスト教勢力の南下に協力する形をとることもありました。
このような現実主義的な外交戦術こそが、ナスル朝が約250年もの間、イベリア半島最後のイスラム勢力として存続し得た最大の要因でした。
フェルナンド2世とイサベル1世(カトリック両王)の即位
15世紀後半、キリスト教諸国にも大きな変化が訪れます。カスティーリャ王女イサベル1世とアラゴン王太子フェルナンドが1469年に結婚し、1474年にイサベルがカスティーリャ女王、1479年にはフェルナンドがアラゴン王として即位します。これにより、両王国は「カトリック両王」による事実上の統一国家へと変貌を遂げました。
彼らの統治のもとでスペイン王国が形成され、中央集権体制と宗教的一体化が急速に進められました。グラナダ王国に対する征服戦争も、この体制下で本格的に再始動されます。
カトリック両王の即位は、スペインという国の礎を築くと同時に、レコンキスタを完結させるための政治的基盤を整える重要な出来事でした。
1492年のグラナダ包囲とアルハンブラ宮殿の降伏
1482年、グラナダ王国で発生した内乱をきっかけに、カトリック両王は軍事侵攻を開始。長期戦を覚悟したカスティーリャ軍は、包囲拠点としてサンタ・フェという新都市を建設し、1490年から本格的な包囲戦に入りました。
2年にわたる攻囲の末、1492年1月2日、グラナダ王ボアブディルはついに降伏し、アルハンブラ宮殿が開城。これをもってナスル朝は滅亡し、約780年に及んだレコンキスタは終焉を迎えることとなります。
グラナダ陥落の瞬間は、イスラム文明のイベリア半島における終焉であると同時に、スペイン王国の宗教的・政治的統一の完成を意味する歴史的事件でした。
異教徒追放と現代における評価と反省
レコンキスタ完結の直後、カトリック両王は「スペインにおける信仰の統一」を掲げ、ユダヤ人・イスラム教徒の追放を進めました。1492年にはユダヤ人追放令が発布され、次いでムスリムにも改宗か国外退去を迫る政策が導入されました。
こうした政策により、多くの有能な商人・学者・技術者が国外に流出し、スペイン社会は中長期的に大きな損失を被ることになります。また、後世においては、こうした宗教的排除政策が「宗教的不寛容」「文化破壊」として批判の対象となっています。
現代スペインでは、レコンキスタは国民国家の原点とされる一方で、異教徒排除の負の側面にも注目が集まり、歴史的再評価と反省が進められています。
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